史跡

多紀家墓所 附(つけたり) 金保氏墓

東京都指定文化財(史跡)

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多紀家は代々将軍家の奥医師をしていました。奥医師の制度は天和三年(1683)年に発布されました。享保二十年(1735)、多紀家五代・元孝(げんこう)は将軍の命により本道(内科のこと)へ転向し、宝暦元年(1751)には八代将軍・徳川吉宗公の御匙(幕府医官の筆頭)となりました。

当時の医学は師弟関係の中で伝授されていました。明和二年(1765)には元孝は神田に医学校「躋寿館(せいじゅかん)」を設立し、幕府医官に限らず医学を学びたい人々に門戸を開放しました。寛政三年(1791)には躋寿館は多紀家から幕府へ名義を移しますが、世襲の館主となって江戸時代の医学教育に尽力しました。

向柳原 多紀家(本家)

七代・元簡(もとやす)こと桂山(けいざん)と、その一族の墓所が東京都指定文化財(史跡)に選ばれております。

矢の倉 多紀家(分家)

桂山の五男・元堅(げんけん)、元琰(げんえん)の墓所は本家墓域の東隣にあります。

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<参考> 多紀一族が登場する作品

  • 司馬遼太郎 『胡蝶の夢』
  • 手塚治虫  『陽だまりの樹』
  • 村上もとか 『JIN-仁-』

山川城官一族墓碑群

北区台帳登載文化財(有形文化財・歴史資料)

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山川 貞久(やまかわ じょうきゅう)は慶長年間(1596~1615)頃から徳川幕府に仕え、徳川家光公に侍する検校(けんぎょう)です。通称を城官(じょうかん)と言いました。検校とは、目の不自由な人が租属する当道座(とうどうざ)という職能集団における最高位の官職のことです。

将軍家侍医の城官は永年鍼治療を施し、将軍家から好待遇を受けていました。徳川家光公訪問の際、急な病で倒れました。城官は昼夜そばに仕えて、いざとなれば自分が身代わりになることを武蔵国豊島郡の平塚明神(現在の平塚神社)に祈っていました。ほどなくして将軍の容体は回復しました。

城官は私財を投じて平塚明神社殿を建て直し、社殿を寄付して管理のための寺院を建立しました。(当時は神仏習合であり、神社内に寺があることが一般的でした。)

寛永十七年(1640)、三代将軍・徳川家光公が訪ね、「誰がここまで造営したのか」と尋ねました。そこで村役人が貞久が再興したこと、さらに家光公が病気になったとき快復を祈願していたことを申し伝えました。

のちにこのことが将軍の耳に入り、すぐに城官を御前に呼びました。神領の寄付があり、城官にも領地を与えられました。平塚明神へ社領として50石、城官への忠義に対する恩賞として知行200石を与え、安楽寺の寺号を改めて平塚山城官寺安楽院と称すべし、との命がありました。